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はじまりの時代

第4回 1995年「越冬」
~僕等の情熱は行き場を求めてもがいていた~

スコラ会員ナンバー0001

専用線の接続と同時に「インターネットスコラ」は公開となりました。
このサイトは、エンターテインメントコンテンツがほとんど無に等しかったWebの世界に大きなインパクトを与えたと思います。公開初日から大量のアクセスがあり、運用は困難を極めました。

そんな中、新しいメンバーを迎えることになります。
スコラ会員ナンバー0001の青木利美は、「インターネットスコラ」のサーバーがダウンしたときに助けてくれた恩人であり、その後のキノトロープのシステム部分の大黒柱になる人物です。これで現在のコアメンバー5人全員がキノトロープに参加する事となります。

キノトロープの有名人

1995年7月には伊藤幸治、坂和敏もキノトロープに参加しています。
両人とも大手百貨店に勤務し、仕事でインターネットを利用していました。以前からキノトロープの仕事を手伝っていた関係もあり、キノトロープが本格的にインターネット事業を立ち上げるに当たり、参加を決意したようです。

時を同じくして、河合あみこが入社します。 彼女はひたすらWeb上で「日記」を書き続けました。1日8時間を越える書き込みは、彼女を「日記界の女王」と呼ばれる程の存在にしました。 こうして雑誌の連載を常時2、3本抱えるキノトロープ随一の有名人が誕生しました。1995年暮れには、10名のメンバーを数えるようになっていました。

ビジネスなんてあり得ない

「インターネットスコラ」の成功と共に順調に進むかと思われていたインターネット事業もあまり芳しい状態ではありませんでした。当時のWebを取り巻く状況と、キノトロープが考えるWebに大きな隔たりがあったことが原因だと思います。

当時の僕等は、いろんな業界の10年選手が集まってスタートした会社でしたから、まず最初にWebを何に使うのか、 Webをビジネスとしてどうすべきなのかを考えるところから始めました。本をつくるときと同様に考えるわけです。まずは読者(ユーザー)の存在。市場の可能性はどれくらいあるか、何万部売れるのか、採算を考える。当時、日本のWeb制作でそういう考えは皆無に近かったのです。社長の顔が載ったIR情報 のサイトが主流という時代。しかしその「看板」としてすら機能しているものが数少なかった時代だったのです。

僕は、Webに出会ったときから、既存のメディアにはないソリューションをユーザーに提供できるかもしれないと感じていました。今はユーザーの問題を解決することが、 Webの大切な役割であることをみんな理解していると思いますが、当時はそうではなか ったのです。今では「One to One」だ「CRM 」だなんて言われていますが、町の八百屋さんはとっくに馴染みのお客さんにやっていたことですよね。僕等は、そういうもの をWebで出来ないかと考えていました。

撤退か継続か

人は増えたけど仕事がない状態が続き、CD-ROMで稼いだ金をインターネットにつぎ込む日々が続きました。そしてついに1995年の10月に全員に宣言したのです。

「もし12月までに収益のあがる仕事が受注できなければ、仕事としてのインターネットからは撤退する」

もちろん、インターネット自体をやめてしまおうと思ったわけではありません。徹夜でCD-ROMを制作しているスタッフにこれ以上の負担をかけられないなと考えただけです。「もしここでインターネットをやめていたら…」と今でもたまに思い出すことがあります。 Webサイト制作からの撤退を真剣に議論する日々。10名になったメンバーは、インターネットの明日に不安を感じていました。キノトロープ冬の時代です。

同志:10名

続く



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